観察の美術史と諸感覚を通して「見る」
2024年12月15日,令和6年度岡山大学次世代理系人材育成プログラム講座の一部として,清田哲男先生のご講義がありました。
みなさんは「見る」という言葉から,どんな行為を思い浮かべますか?
「見せられた」でも「見えてしまった」でもない「見る」は,主観的な行為と捉えることができます。
主観的ということは,見る人のこれまでの経験や生き方によって,何を見ているかが変わるということです。
川﨑謙氏によると,観察には「科学的観察」と「現象的観察」の2つの枠組みがあるそうです。
科学的観察とは,神がつくったイデアや物事の真理に到ることを求めて,見る・触る・聞く・匂うなど,諸感覚を通して得た情報を一般化する観察です。
現象的観察とは,そこにあるものすべてが,そのままで正しいという考えが基にあり,自分の育てている花に名前をつけてかわいがるなどの観察です。
科学的観察は西洋的な考え方で,現象的観察は日本的な考え方ですが,どちらが良い悪いということではなく,どちらも大切です。
どちらかに偏った見方をしてしまうと,新しい価値に向かう可能性のある気づきを見落としてしまう可能性があるからです。
たとえば,「青色のリトマス試験紙をレモン果汁につけるとどうなるでしょうか」と問うてみたとき,中学生であれば「赤色になる」と答え,幼稚園児であれば「紙がぬれてふにゃふにゃになる」と答えるかもしれません。このとき,リトマス試験紙の変色を知識で覚えている中学生は,紙が濡れる現象やそのときの感覚を忘れている可能性があるのです。
後半は,自分が嗅いだ匂いを形と色彩で表現し,同じ匂いを嗅いだ人を当てるというワークショップを行いました。
描いたものを掲げ,他の人にアピールするときにも,オノマトペでしか発言できません。
はじめは戸惑う参加者の皆様でしたが,大体の方が同じ匂いのグループで集まることができました。
みんな違うことを感じ,違う表現をしているのに,同じグループで集まれたのはどうしてでしょうか?
匂いのワークショップでも,「共通する部分(科学的観察)」と「個人的な部分(現象的観察)」が見られました。
新しい価値や発明は,この2つの観察の繰り返しやすり合わせによる気づきから生まれてくるのかもしれません。
まず,自分の感じたことを周りの人に話してみて,確認する習慣をつけることに取り組みたいです。そしてそのときに,自分のために「ちがうよ」と言ってくれる人を大切にしたいですね。
文:スイミー
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