クリエイティブ・エデュケーター講座に参加しました
クリエイティブ・エデュケーター(CE)とは、身体性を伴う感受や経験を通した教育活動によって学習者が新たな価値の実現に向かう創造性教育を担うことができる教員のことです。創造性・STEAM教育を推進するロールモデルを考察し、横断型探究活動の中核となる教員を目指します。
今日は、遠方から来られた先生方がほとんどで、お昼には岡大内の散策もしました。岡大出身の先輩方は、「こんなとこにエレベーターあったっけ」「生協が3つも!」と、驚きのご様子。え、10年前って講義棟のエレベーターなかったんですか!?
学習内容と学習者と社会
まずは、清田先生から、感創とSTEAM教育の視点から、学びの在り方を考えるヒントをいただきました。合理的な教育とSTEAM教育を比較し、STEAM教育によって学習者に当事者性が得られることを挙げました。岡山大学は、学習者が知識や環境と関わりながら、当事者性をもって新しい関係性を作り出す新たなカリキュラムに挑戦しています。
学習には、学習者、学習内容、社会の3つが密接に関わっています。これまで、学習者が学習内容、つまり知識を獲得するための工夫はなされてきました。しかし、社会と学習者、学習内容と社会の関係は、あまり考えてこられませんでした。でも、「いいことおもいついた!」という学びへの積極的な姿勢は、社会の中で起こるため、勉強漬けにしても意味がないのです。社会の中でというのは、ただ学校外とコラボをするという意味ではありません。「これって社会にとって価値になるのかな?」と考えることです。どれが大切というわけでなく、学習内容、学習者、社会、この3つが、偏らずにバランスよく共存することが大切なのです。フロントランナー型の教育による、学習者が社会を通して学びに向かう仕組みによって、個人のささやかな発見を、社会にとって価値のある発見につなげることができます。
創造性を伸ばす方法
でも、そのような仕組みはわかったとしても、一体どうやって指導すればよいのでしょうか。まず、Big-C(社会を変える革新的な創造性)やpro-C(専門性を活かした専門分野での創造性)は急にはできないにしても、熟練した他者(教師、特定の領域でより熟練した人)がmini-C(学習の過程の一部である個人内の創造性)とlittle-C(何らかの貢献がある日常的な創造性)の切り替えを促す方法として、カウフマンらは以下を示します。
(a)初心者のmini-Cの解釈を聞き、理解しようとする時間をとる。
これは稲田先生の後半のご実践でも気を付けられていたことなのですが、学習者の「もしかしてこうなんじゃない?」といった発言を、否定しないのです。一回受け止めて、「そうかもしれないね。」「本当にその結果だったら、どうやってみんなに納得させる?」など、学習者と一緒に考えていました。そうすることで、学習者が今なぜこの問題を考えているのかが自覚でき、自ら考えることに繋がっていました。この時、「それは違うよ」みたいに声を掛けられていたら、私は間違えたんだ、この問題は難しい。という印象がついてしまっていたかもしれません。
(b)初心者の貢献が、特定の活動やタスクの領域制約、慣習、基準に照らして意味を成さない場合に、初心者に合図を送る。
軌道修正の様なものでしょうか。いくら学習者からの能動的な働きかけを大切にしているといっても、時間は有限ですので、一定の成果を出せないまま待ち続けるわけにはいきません。適切なヒントを、学習者のやる気を削がないように伝えることを、「合図を送る」と表現したのでしょう。
(c)mini-Cとlittle-Cの創造性を往復しようとする機会を学生に何度も提供する。
当事者性を得るために、大切です。学習で、誰かのペースに飲み込まれて気が付いたら自分の手元から離れて、学びの意欲が削がれた記憶はたくさんあります。
感創
教師は、学習または学習者自身を見るのではなく、「その人の学習の状況」を評価するものだと学びました。学びたいと思える状況を作ることができるように、頑張ろうと思いました。そして、感覚器で自分の外側を感じ、内側で考えたことを行為で外に表出するというお話から、感創研のご紹介がありました。先生方も、興味津々に質問されておりました。
「当事者と主体性はどのように違うのでしょうか。」という質問に対し、清田先生は、中動的な態度の違いを指摘しました。主体性は、意欲的に学ぼうとすることで、自分でやってやるぞ!という気持ちがあること。対称に、当事者では、自分の身体が必要なことはもちろんのこと、自分からグイグイ学びに行くわけではなく、学習内容の方が勝手に自分の中に入ってくることもあるでしょう。興味のないことに対してどれだけ向き合い、興味の範囲を広げられるかが学びの姿勢として重要なんですね。
今までの考えを「捨てる」?いや…
稲田先生は、学習者の目指す具体的な姿として、「分からなくて不安な状態を楽しめる」人になって欲しいと仰います。俳優の柳楽優弥さんが数日前にインスタのストーリーで同じく「わからないということをもっと楽しんでもいいのかも」とおっしゃっていたので、なんだかタイムリーだなあと思いました。
稲田先生は、「前例のない、予測困難な時代を生きる」って、なんだか脅されてるみたいで怖いですよね…と仰っていました。たしかに!そして、多様性や新技術を活かした、だれもがウェルビーイングな未来を作りたいと願っています。
新学習指導要領では、未来の創り手を育てるように書かれています。「今までの考えを捨てろ!」なんてよく言われますが、それって本当に新しい価値づくりになるのでしょうか。だって、前までの経験を捨てたら、みんな一緒の人格になってしまって、チームで探究やる意味がなくなっちゃいますよね。固定観念の束縛から「解放される」ことは必要ですが、「捨て去る」ことは、危険なのかもしれません。
結局のところ、小さな発見の連続を楽しいと思えるような環境づくりに懸かっているような気がします。
創造性は「どまんなか」
稲田先生は、創造性という言葉について、どこか特別でフワフワしている言葉なのかもと言います。創造性は、自分のものであって、ど真ん中。すべての人の生活に必要な、当たり前のものなのです。勉強や探究は本来は楽しいもの。新しい価値やアイデアを提案し、試していくと、いろんなことが繋がっていって、新しい世界が目の前に広がります。例えば、理科をなぜ学ぶのかというと、どこから手を付けていいかわからない自然をいろんな方法で知っていくことで、人間も自然の一部だと認識できることなのだそう。でも、自然に働きかけても、すべて思うように返してくれるわけではありません。そこに、気まぐれなこの世界の道理の奥深さがあるようです。
堤先生も、創造性への印象には、何か特別感があったり、難しいと思われていたり、しまいには「創造性がありすぎて社会性に欠ける」という間違った認識がなされたりもされると指摘します。
ど真ん中の学びのために有効な仕掛けは、たとえば揺さぶられたり、期待感が持てること。そして、その場が生まれる鍵は、ちょっとした工夫で可能なのです。創造性はなにも難しいことではないのです。
堤先生のご実践をふまえた討論では、いかにしてSTEAMを探究の中に取り入れたかや、生徒がボランティアをやることだけ決まっていて、それ以外のことはすべて生徒が決めるスタイルの、あくまでも先生は調整役として関わった探究活動について考えました。満足度の高い活動になり、社会にとって価値があるのかをジャッジすることができたといいます。堤先生へのご質問・感想として、「若手の教員がこの経験で意識が変わったのが見れたことがよかった。」「現場で、子どもたちを自由に動かすのは難しい。何をするか先生たちで決めてしまう。」との声が上がりました。解決方法として、子どもたちは勿論、先生方も面白がれる内容を目指すべきであると仰っていました。子どもだからこんなもんと決めつけないようにするべきなのだと思います。また、ボツ案もあったといいます。それは、ゴミ拾いの案。これまでにやったことがあるから、新奇性がなかったとのこと。他にも、小学生の夏休みの宿題をなくすためのボランティアなどがあがったそう。なんか変じゃない?と思う過程も、大切な時間です。
生活から遠い存在になってしまう、数値
session4では、岡山大学の1年生に実施された実際の授業をご実践・ご紹介されました。
稲田先生は、理科の実験で、数値とじっくり向き合っても、なかなか実態を伴って理解することは難しいことを挙げ、そんな時に、測定装置を生徒自身が工夫して調整することで、数値の奥にある物体の姿を、想像を伴って理解することができると仰います。私は、測定というと難しいものだと思っていたのですが、トライアングルの音で付箋を震わせること、虫眼鏡と瓶で光の動きを見ることなど、簡単なものと動作で、そこに起きる現象を説明することができることに驚きました。
そして、生徒が閃いたどんな案も受け入れて一回納得すること。そして、他者を納得させると、それはサイエンスになるのです。「それは違うよ」って否定するのは科学とのこと。積み上げてきた誰かの知識が科学で、身を持って自分で理解し、新たな道理を議論し納得するのがサイエンス、といった感じでしょうか。
装置は手作りでも、今までと違ってもいい。他の人が思いついてない方法で結果を出す快挙があるかもしれないから、高級な既存の装置なくても良いのだそう。そう考えると、難しそうな科学も、面白くなってきます。そんな考え方ができたら、道を歩いているだけでも、身の回りのものを使って、理科につなげることができるといいます。
なんちゃってホログラム
パラボラ型のボウルの様なものを使った、そこにあるようで本当は虚像を見ているだけという不思議な体験と、透明シートとスマホを使ってキャラクターを出現させるワークをしました。
中に入れたはずの10円玉が、ボウルの穴の表面にふわり。驚きと、原理を考えることで皆様必死でございました。
参加者の皆様は、それぞれに「こうやったら面白そうじゃない?」と、次にやりたいことを挙げていました。でも、検索したら、何件もYouTubeに引っかかる。みんな考えることは同じなんだ~とがっかり。先生方は、mini-Cとlittle-Cの往還が早くて、合図も自分で出せるんだなと、恐れ入りました。
ちいちゃなピカ〇ュウがほんとにそこにいるみたい。これは合成されているのか、はたまた反射しているのか…画用紙を間に置いてみたり、角度を変えたりして、初対面なのにその熱い議論はもうチームのようでした。
ご参加された方の声
この体験を通して先生方からは、
「実際にやってみると、普遍的な二次関数を自分のこととして考えられました。」
「学校は閉じた場所にいるので、対教師、対生徒になってしまいがちですが、外に向かって学びを広げていくことが大切なのだと学びました。
「教科書ってすごく考えて作られているのだと思いました。授業からクラスづくりをしていこう、積み重ねようと思いました。現在不登校の子どもたちと接していますが、授業づくりの面白さを思いだしました。今日のような活動や、さまざまな生活経験を想定することは大事だなと思いました。」
「私のとこでは、逆に教科書通りに先生がやろうとするから、学校の状況と会わない。探究はまず知識技能がないとできないと思っていましたが、学びたくなる授業をやって、自分で知識を学びたいと思うきっかけが作りたいです。でもまずそのような授業を先生が受けたことがないから、できない。来年度も、受講させていただきます。」
「創造性、創造性と言って、予定調和の動作を繰り返し、さも新しいことに気付いたようにしている時があるから気を付けたいです。」
等の感想がありました。
開講した先生方は、「CE講座は今後も、人生の喜びに向かっていく力を培っていく場になればよいと思います。」「創造性も、装置も、特別なことじゃない。気づけなくなっているだけです。子どもは面白いものを見つける名人です。大人がそれに敏感に気づき、目に映るものがすべて面白いと思えるような学びの場を作りましょう。」と締めくくりました。
私はふと、鏡って「鏡」という物質があるわけではなく、ガラスと銀の膜によって反射してるだけじゃん、と小さな発見をしました。アホらしいかもしれないんですけど、なんだか、世界が広がったような気がしました。最初に考えた人も、今当たり前になってんのもすげえ!とか、この世界まだ発見してない事あふれてる、大発見間に合うのでは?とか、そうやって自分の外側を面白く考えられることが、生きる人すべてに必要なんだろうと思います。
CE講座、来年もよろしくお願いします。
もち
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